マスコットダイアリー

オリックスのマスコットキャラクター、バファローベルとのグリの記録などなど

8月6日に思うこと。

8月6日。

 

 

今日から第101回全国高等学校野球選手権大会が開会する。

オリックスバファローズは、札幌ドームで北海道日本ハムファイターズと対戦し、広島東洋カープは熾烈な首位争いをする中、横浜DeNAベイスターズとの大事な3連戦を本拠地マツダスタジアムで迎え撃つ。

 

そして、僕は今、クーラーが効いた部屋でパソコンと向かい合いながらブログを更新している。

 

平和である。

 

 

8月6日。

それは日本国民にとって忘れてはいけない日である。

そう、人類史上初めて原子爆弾が投下された日である。

Twitterをフォローしてくださっている方はご存知だと思うが、私はパリーグオリックスバファローズ を応援しているが、セリーグ広島東洋カープのファンでもある。

そのため、広島には少し縁のようなものを感じており、一般的な広島県外の人よりも自分なりにこの日に向かい合ってきたつもりである。

せっかくブログも開設したので、今日この日に8月6日について思うことをこの場で述べたいと思う。

 

私が広島東洋カープのファンであることは先述の通りであり、したがって、マツダスタジアムに観戦に行くために広島に赴くことが多い。広島に行く際に自分で決めていることがある。それは、必ずに原爆記念公園に訪れるということである。

初めて広島を訪れたのは小学校の修学旅行である。私が育った市は平和教育に力を入れていて、小学校の修学旅行は広島県、中学校の修学旅行は長崎県と決まっていた。小学校・中学校とも修学旅行では、原爆記念公園を訪問し、資料館を見学して、夜は宿舎で被爆者の方のお話を聞いた。小学生が夜疲れて眠い中、ただ椅子に座って話を聞くのだから、被爆者の方の話の内容はあまり覚えていない。しかし、被爆者の方のお話を聞いたという経験は鮮明に覚えている。今日更新されている原爆関係の記事なんかを読んでいると、被爆者の方の平均年齢は82歳になっているようだ。私に話をしてくれた被爆者の方が亡くなっている可能性も低くない。そう考えると、自分は被爆者の方の声を生で聞くことができる貴重な時代に生まれたと実感するし、原爆を風化させないために後世に伝える役割の担い手は被爆者の生の声ではなく、それを受け取った我々に変化しつつあるのではないかと思う。 

 

もう1つ鮮明に覚えていることがある。資料館に展示されていた蝋人形である。薄暗い展示室の中、通路の脇には無残にも崩れ落ちた煉瓦が散らばっており、通路の先にはいかにも恐ろしい蝋人形があった。初めて見たときは衝撃を受けたものである。小学生の頃に見て以来、いまだに脳裏に焼き付いている。小学校の修学旅行以来7年ぶりに広島を訪れ、この蝋人形の前に再び立った際にもやはり衝撃を受けた。私はまだ20年余りしか生きていないが、あれほどインパクトのある展示を見たことがない。しかし、この蝋人形は撤去されてしまった。

 

一昨年の交流戦オリックスマツダスタジアムカープと対戦した。この年の交流戦ではベルちゃんがマツダスタジアムに遠征に行ったので、カープファンとしてではなく、オリックスファンとして初めて広島を訪れた。この時、資料館はリニューアルにむけて改修工事をしていて、館の一部だけ見学できるようになっていた。この展示を見て危機感を抱いた。誤解を恐れない表現をすると、展示がかなりショボくなったように感じたのである。原子力爆弾の構造の説明やパネル、ジオラマでの展示がほとんどであり、実物そのもの展示がほとんどなかった。また、ケロイドという言葉も使われていなかった。小学生の時に見た蝋人形や焼きついた人の影、黒い雨から感じ取ることのできた原爆の恐ろしさというものを全く実感できなかったのである。展示の一部しか見学することができなかったため、現在非公開になっているエリアに原爆の恐ろしさを訴える展示があったのかもしれない。しかし、当時は蝋人形が撤去になった理由が「怖いから」などと噂されていて、資料館がトラウマで資料館に行けなくなった広島出身の友人がいることもあり、この噂を今日まで信じきっていた。そのような穿った見方をしていたため、展示もショボく感じてしまったのかもしれない。

 

「こわいから」「トラウマになるから」

このような理由で蝋人形を撤去し、刺激が少ない展示にシフトチェンジしていって良いのか? 本当に伝えたいことは何なのか?

そういった趣旨のブログを本日は書くつもりでいた。

 

しかし、ブログを書く前に確認のため、色々調べていると別の事実が明らかになった。

資料館の方針として実物展示を重視するということで、蝋人形を撤去ということにつながったらしい。そのため、記事の内容の変更を余儀なくされているところである。

蝋人形には被爆者の方からも批判があったようである。

「被害はこんなものではなかった。」

重く受け止めなければならない言葉である。

たしかに、被爆者の方が経験した現実は蝋人形が甘く見えるほど、想像を絶するものであったのだろう。実際は服が焼けて裸で、顔も性別がわからにほど焼けただれた人もいたと聞く。

 

 

それでも私はあの蝋人形を撤去すべきでなかったと思う。

小学校の私ですら衝撃を覚えるほど分かりやすく、

それから12年経った今でも脳裏に焼きついているほど、

原爆の恐ろしさを示す展示であったからである。

 

 

今年で被爆から74年。被爆者の方たちもどんどん高齢になっていく。

被爆者の方が少なくなるにつれて、資料館の役割も大きくなっていくと思う。

資料館の展示が今後どのように変化し、何を伝えていくのだろうか。

 

今年の4月に展示が完全にリニューアルし、公開された。今年はまだ広島に行けていないので、近いうちに広島に行って自分の目でリニューアルされた資料館を確認しなければならないと思う。

 

 

影響力のない自分ではあるが、このブログを読んで少しでも原爆や平和について考える人が増えることを願いながら、ベルちゃんの触れ合うことができ、こんな自己満のブログを運営することができる平和に感謝したい。

 

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2017年6月15日の平和記念公園  慰霊碑にある「過ち」とは何をさすのだろうか。